ジャンプ、鳥山明、ドラゴンクエストという潮流に見事に流され続け、ファイナルファンタジーに視線を向けるそぶりもなく、ひたすら何年もドラゴンクエストの新作を待ち続け、発売日当日にゲームショップに足を運び、プレイを開始するとたちまち生活のリズムがドラゴンクエストを中心に展開され、隠し要素まで一通りやり終えると、今作のシナリオや新要素、ゲームバランスを反芻して飲み込んでいたら、前作ドラゴンクエスト8のときには、随分といい歳になっていた。同年代ではもちろんゲームをやらなくなった人もいっぱいいるが、職業柄か濃いゲーマーやオタクな友達も周りには随分見受けられる。しかし、子供の頃から頑なにドラゴンクエスト一本槍を貫いてきた自分は、他のゲーマーからみるとちょっぴり異端な存在になってしまったようだ。私が必死にビアンカに固執したり、井戸の中に落っこちたり、石版を集めたり、アイテムを合成している間に、ファイナルファンタジーも新作がでる度に話題となり多くのプレーヤーをかかえ、ドラクエと肩を並べる存在になっていた。いやそんな話はもちろん耳には入っていたし、3Dグラフィックの美しさがハードの性能競争に拍車をかけていたのも何度も聞いた。しかし、ドラクエを愛するがあまり、耳には幾重にもフィルターがかけられ、ファイナルファンタジー賛美の言葉は曲解されていたのだった。
「ムービーが美しい」というファイナルファンタジーのセールスポイントは、つまりムービー中心の多様性のないシナリオを強制されることを意味する。強力な召還呪文は一回唱えるのに、十分程度の時間がかかるなんて話も耳にしたことがある。画面効果に力を入れるあまりゲームのテンポを殺している。私はファイナルファンタジーが発売される度に、プレイもせずにそんなことばかりを考えていた。ドラクエ至上主義な私はそんな風にファイナルファンタジーを非難することで、相対的なドラクエの地位を高めようとしていたに違いない。ゲーム誌のレビューやテレビ番組での特集を観るとたくさんのユーザをかかえ注目度の高いファイナルファンタジーに対して必ず賛否の両論があるが、批判の方ばかりに注目していたことは否めない、と過去を振り返って思う。
転機が訪れたのは数年前のことだった。とあるきっかけで当時のスクウェア(現スクウェアエニックス)でファイナルファンタジーの制作に携わっていた人とお知り合いになれたのだ。いわゆる「中の人」というやつだ。ゲーム業界の人の使い方については、いろいろな噂が飛び交っていたので、私も興味津々だったが、ドラクエ派として、とりあえず「私はFFよりドラクエです。」とだけ宣言させてもらった。なかなかに失礼千万な行為だが、その人はドラクエ一辺倒な私も余裕で受け入れてくれたようだ。お話しているとFFのダメなところをしっかりと認識した上で、下手な言い訳をするでもなく、開発時のバックストーリーをいろいろ教えてくれたのだった。なんかこの人めっちゃいい人かも、という思いは日増しに膨らむ。さらに私をひきつけて止まなかったのは、PCに関する知識量が底知れないということだった。「マルチメディア」をキーワードにパソコンが普及し始め、Windows95→インターネット→ブロードバンドと言葉を変えながらもPCは広く一般家庭に広まり、生活に不可欠なものになりつつあるが、それ以前の時代にPCはごく限られた一部の人のためのツールや娯楽だった。従って、それ以前の時代を知る人はごく少数ということになる。そして、その人もまたその中の一人であった。昔のPCの話ができて、しかも中の人。なんて気になる存在感だろうか。
そんな人が携わっていたゲーム・・・ちょっとやってみたいじゃないか。